日枝神社の広報誌「山王」の通巻134号の中から
一部特集を抜粋して紹介いたします。
広報誌の全編は山王ギャラリーからご覧いただけます。
日本風俗史学会々員
齋藤慎一
青梅住吉祭礼の人形と山車
青梅住吉神社祭礼で、比較的古く江戸型の鉾山車を所有したのは、青梅街道筋の五町でした。江戸から十二里の青梅村、その中心で、慶長(一六二〇年代)以来、二七の六斎市が立つ「市場三町(六丁)」の一町が仲町です。
古雅な顔立ちと、武人系の他の四町の人形の中でもひときわ際立つ、愁いを帯びた涼しげな目元と朱色の唇による美形な立姿は、能楽の舞「大左右」の型を彷彿とさせ、優美な動きを表現しています。また、かつて付属していた山車の意匠に見られる若松、岡、飛鶴のモチーフから、鎌倉鶴岡八幡宮神前で奉納された静の法楽の舞と考えられます。

洗練された能楽の動きを映し出すこの人形は、たとえ衣裳がやや派手になった部分があったとしても、基本的には能装束の趣を保ち、一種の落ち着いた品格を呈しています。髪は垂髪を背にして元結び、横皺が美しく表現された金色の立烏帽子には紫の掛緒が添えられ、襟は白の三枚重ね、小袖は白綸の趣が感じられます。袖口は赤がアクセントとなり、表着は白地に細やかな宝相華唐草文金襴があしらわれた舞衣(長絹)を、黒の三つ巴紋刺繍の腰帯で整えています。女性の袴は、能では通常赤い大口袴ですが、ここでは朱地に大柄な蔓つる牡ぼ丹文の半切ぎり袴(模様付きの大口袴)が用いられており、古い袴は銀襴で黒変している一方、復元模造のものはプラチナ銀使用か否かに関わらず黒変していません。仲町の古い半切袴は、後腰を張らせるために畳表を使用しており、これにより人形の立ち姿に安定感が生まれます。祭礼の日には、保存された古い半切袴や舞衣(長絹)が会所(人形場)に展示されます。

さらに、この人形は背に黒漆の串金幣を負い、右手に黒骨の金地若松図が描かれた扇(先がひらいた扇)を持ち、左手は袖をつくろうとする構えを見せています。腰には、黒漆で研ぎ出した鮫のような腰帯と一体の三つ巴紋の目貫、そして金の唐から鍔につけば塵地鞘の豪華な飾り太刀(本来は白しらびようし拍子などで使用不可能な公家の束帯用)を、紫の緒(後補)で、鷗かもめじり尻(鞘先を高く)に佩かせることで、静御前という女性に一種の男らしさを演出しています。本来、静のような白拍子という芸能は男舞であり少年の服装とされるため、水すい干かん(狩衣に菊綴とじという飾り緒を付ける)、立烏帽子、腰に巻く鞘さや(腰刀)や緋の長袴姿(「平家物語」などに見られる)といった装いが基本ですが、この人形では大胆に変更されています。
さて、仲町の静人形は、栃木県栃木市倭町三丁目に所在し、明治七年(一八七五)に、江戸山王権現祭礼町・九番の日本橋伊勢町・本小田原町・瀬戸物町から購入された「嘉永元(一八四八)申年六月吉日」「新造」「松雲斎徳山作」の人形(「静人形御頭入」箱のさし蓋や底板墨書銘付き)と同作であると推定されています。倭町の山車や人形は修理・改造を重ねていますが、比較検討するに十分な一致が見受けられます。


日本橋三町における旧態は、文久二年(一八六二)五月、文正堂小林泰次郎版の大判錦絵(組み立て絵)や、同じく歌川芳藤画による大判三枚続錦絵(慶応四年(一八六八)七月、大貞版『東都日枝大神祭礼練込之図』)に詳述されており、芳藤の描写は各町山車の組み立て絵として信頼に足りるものです。これらの錦絵は、嘉永元年から明治七年までの日本橋三町所有の山車人形の様相を伝えており、静の立烏帽子狩衣の舞姿、朱の組高欄、高欄四隅の金幣、二層目に連なる飛雲と飛鶴の胴幕、一層目欄間の稚ち子ご頭(しら型)、胴幕の若松、框側面の亀甲や蜀紅文の平彫、並びに囃子座の一文字幕の三つ巴紋などが、栃木市倭町の山車と一致しています。さらに、静人形山車付属の平箱(被かぶせ蓋の造り)には「九番御祭禮 水引二張(一・二層の二組の幕) 人形衣裳 伊勢町 本小田原町 瀬戸物町」と墨書かれており、栃木が明治七年以前に日本橋から移譲されたことが確認されます。


一方、青梅仲町は、天保十一年(一八四〇)の「花火火事」、安政四年(一八五七)の「若狭屋火事」、文久二年(一八六二)の「豆腐屋火事」によって全町が被災し、資料は乏しいながらも、山車付属の長持に「明治五壬申(一八七二)歳 仲両街」と墨書かれ、また静人形の元来の山車(現青梅大柳町所有)の枠飾板(台輪)には町名「仲両」が角文字で連続して記されています。さらに、昭和三年新造の仲町の山車においても、枠に町名「仲町」があしらわれている点は注目に値します。一方、江戸・外神田では明治五年代まで仲町が存在していましたが、一・二・三丁目のみであり、両街と呼べる規模ではありません。われらの青梅仲町は、二丁目で仲両町または仲両街と称されていたため、日本橋の伊勢町など三町のいずれでもなければ、この山車と人形は青梅仲両町で制作された可能性があると考えられます。
青梅仲町は「御ご判はん町」とも呼ばれ、青梅村の高札場が存在した中心街です。ここには料亭若狭屋、呉服太物の升ます屋、名主・村役人の住居があり、延宝(一七五〇年代)頃の祭礼では江戸の町内と同様に、一丁目東境に「住吉大明神」、二丁目に「真ま須す美み乃の叡え大神」として大幟が一対ずつ建てられていました。遊芸も盛んで、俗に「仲町長唄」と呼ばれ、芸事の祖である静御前の人形にふさわしい富裕な町内であったことが窺えます。
人形の容貌は大人びた美しさを呈し、能楽装束の応用や舞の型の正確な造形が特徴で、松雲斎米久保徳山の嘉永を下る年代の作と推定されます。頭や手足の胡粉、彩色は当初のままで、古装束が保存され忠実な復原模造品として正確に着付けられており、町内の文化財保護への努力にも敬服せずにはいられません。
畏友の山瀬一男氏、八王子の山下泰司氏、青梅の同学の友である小林一博氏、村野公一氏からの資料提供に感謝するとともに、整稿・編集は「青梅市の山車」で好評を博した久保田幸司氏の奔走によるものです。
おもちゃ絵の芳藤が描く山王祭の悼尾の名作、三枚続『東都日枝大神祭禮練込之図』等についても、後日詳説する予定です。