山王特集記事

山王祭山王山車のゆくえ

日枝神社の広報誌「山王」の通巻129号の中から
一部特集を抜粋して紹介いたします。
広報誌の全編は王ギャラリーからご覧いただけます。


著:江戸祭禮研究
山瀨一男

平成廿八年六月の山王祭は記憶に新しい。元和元年に山王祭の行列が江戸城入城をはたし、以後四百年の時を経てもなお、賑いを見せる山王祭。徳川幕府二六〇年の間、神田祭と並んで後世天下祭と称され、各町から出される山車行列は東都最大の祭禮として様々な文献や錦絵にも遺されており、現在でも関東一円における地方都市の祭禮に影響し続けています。江戸期の山王祭は山車を中心とし、屋台・学び(まねび)の仮装行列が加わった祭禮行列でしたが、明治になりかつての勢いを失っていきます。文明開化の影響は大きく、明治十五年に銀座にアーク灯が灯り、その数年後に電線が敷かれさらに市中に市電が走るようになると、路上には市電の跨線が張り巡らされ、高さの必要な江戸の山車は次第に曳かれることが少なくなっていきました。

世間一般に「電線等の影響で山車を曳くことが出来なくなったため、大半の物が地方都市に売却されてしまった」と伝わっていますが、私が調べたところ、そのような要因での譲渡は、実際にはほぼ無いに等しかったようです。町のシンボルであった山車が曳かれることが少なくなっても、ほとんどの町々は、自町内の山車を『江戸名物』と称して大切に保管していました。しかし、大正十二年九月の関東大震災で多くの山車が焼失損失してしまったのです。こうした中でも震災前に幾本かの山車は、縁あって譲渡されていきました。

今回のコラムでは、かつて山王祭で使われていた山車がどこに譲られて行ったのかを取り上げていきたいと思います。それぞれの山車を詳しく述べることは、都合上別の機会といたします。

千葉県佐倉市

江戸期、佐倉藩歴代の藩主は、幕府の老中職を勤めるなど江戸との繋がりが強く、明治初期には日本橋界隈を走り回って山王祭の山車を譲り受ける立役者がおり、その活躍のお陰で多くの山王祭の山車が現存しています。

山王祭廿七(にじゅうなな)番
『日本武尊』

人形師 二代目仲秀英作

日本橋の萬町・青物町・元四日市(現日本橋一丁目)で使用。明治十三年九月に佐倉市上町(かみちょう)に委譲され、現在も佐倉で曳かれています。

山王祭廿五(にじゅうご)番
『石橋(しゃっきょう)』

人形師 古川長延作

日本橋の上槇町(現八重洲一丁目東)で使用。明治十二年佐倉市横町(よこまち)に委譲され、現役で曳かれている。平成28年の山王祭に里帰りし、日本橋界隈を曳き廻ししました。

山王祭廿一(にじゅういち)番
『竹生島(ちくぶじま)龍神』

人形師 横山朝之作

日本橋の通油町・新大坂町・田所町(現日本橋富沢町)で使用。明治十二年に佐倉市肴町に委譲され、現在は人形と上高欄及び山車の部材の一部が遺されている。

山王祭廿五(にじゅうご)番
『玉ノ井龍神』

人形師 不明

日本橋の檜物町(現八重洲一丁目東)で使用。明治十二年に佐倉市二番町(にばんちょう)に委譲され、人形と上高欄が遺されている。

埼玉県加須市

山王祭廿一(にじゅういち)番
『羅陵王』

人形師 仲秀英作

日本橋の通油町・新大坂町・田所町(現日本橋富沢町)で使用。明治十六年に加須市本町(ほんちょう)に委譲。

『羅陵王』は、文久二年に新造されたもので、明治十年代にこの日本橋界隈で災害があった時に加須の人々が惜しみない協力をしたため、お礼として加須に譲ることになったと伝わっています。特筆すべきは、各地に委譲された山車は、地元で手が加えられ改装されることが多いのですが、この加須の『羅陵王山車』は日本橋に在った時のまま手が加えられることなく遺されていることです。昨年の山王祭では、加須市本町のお囃子連によるお囃子の奉納をしました。

茨城県石岡市

山王祭七番
『弁財天』

人形師 古川長延作

日本橋本町四丁分・岩附町・本革屋町・金吹町(現日本橋室町一丁目・日本橋本町)で使用。大正十年に石岡市金丸町(かなまるちょう)に委譲され、現役で活躍中です。日本橋魚河岸の有力者が尽力し、石岡への委譲が叶ったと伝わっています。

二人の静 栃木県栃木市

山王祭九番
『静御前』

人形師 松雲斎徳山作

日本橋瀬戸物町・小田原町・伊勢町(現日本橋室町一丁目)で使用。明治七年栃木市倭町に委譲され、現在は二年に一度の栃木まつり(十一月)で曳き出されています。

東京都青梅市

山王祭九番
『静御前』

人形師 松雲斎徳山作

日本橋瀬戸物町・小田原町・伊勢町(現日本橋室町一丁目)で使用。明治中頃に青梅市仲町(なかちょう)に委譲され、現在は青梅大祭(五月)で人形のみが会所に飾られています。

瀬戸物町・小田原町・伊勢町は、関東大震災まで江戸の台所とも言うべき魚河岸があった場所です。魚河岸では、一日千両が動くと言われた財力のある町々でした。ここでは、祭禮で山車を二~三度使用すると「古くなった」という理由で同じ出し物を新調するという、魚河岸の財力が伺われる話しが伝わっています。同じ日本橋の町々から、同じ人形師の手がけた二人の静御前が、栃木と青梅に遺るという奇跡のような話しなのです。

群馬県渋川市

日本橋通三丁目
『猿』

人形師 松雲斎徳山作

江戸期の山王祭で、日本橋一丁目から四丁目では、一本の山車『神功皇后』を使用していました。明治中期に日本橋通三町目(現日本橋二町目・三町目)では『猿』の山車を新造して使用しましたが、大正三年に渋川市裏宿町に委譲され、二年に一度の祭禮で曳き出されています。(現在は日本武尊人形に変わっている)

前述、山王祭で使用されていた山車・出し人形を紹介しましたが、この他に日枝神社宝物殿には『神功皇后』『応神天皇・武内宿禰』『土佐坊』人形が遺っており、千代田区資料館には『てけてん小僧』が保管されています。この四体の山車人形は、麴町各町で使われていたものです。

結びに

近い将来、こうした山王祭にゆかりのある山車を集め、山王祭の神幸祭行列に加えられたなら、往時の江戸祭禮を再現できるのではないだろうかと夢を見ている次第です。山車人形のみ遺されているものについては、いずれかの展示場に飾り、ご覧いただければなお良いでしょう。更に欲を言えば、かつての天下祭には『学び』という仮装行列も附祭(つけまつり)にあったわけですから、そのような出し物も加えられたら、なお一層のこと、江戸の山王祭を再現することに一役買うことになるであろうと思っています。

次回の山王祭は平成三十年。(執筆時)この年は、皇城の鎮である日枝神社祭禮(山王祭)にとって節目の年になります。東京奠都百五十年の年。遷都ではなく京都を都として残し、政治経済の都として東京へ奠都して百五十年の歴史を刻んだわけです。

明治期には『東京奠都三十年』の奉祝行事が東京市中を挙げて行われ、さらに『奠都五十年』の奉祝行事も行われました。

来たる「奠都百五十年」、東京と共に歩んできた日枝神社と山王祭にとってこの節目の年に、かつての山王祭の現存している山車も一同に参加できたなら、それこそ東京随一の大祭になるに違いないと大きな夢を見続けています。

日本橋住人記す